百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2018年3月24日土曜日

終着点

単なる遊びや暇つぶしで、女神ムーサイを用いるなど、女神の品位を落とすことだと、わたしにいう人がいるけれど、そのような人間は、わたしとはちがって、快楽、遊戯、暇つぶしが、どれほど価値があるかわかっていないのだ。というか、わたしなど、それ以外の目的こそ笑止千万と、今にも口から出かかっている。わたしは、その日その日を生きているのであり、こう申してはなんだけれど、もっぱら自分のために生きている。わが計画は、そこが終着点なのである。若い頃のわたしは、自分を誇示するために勉強したが、その後は、少しばかり自分を賢くするために勉強した。そしていまは、楽しみのために学んでいるのであって、けっしてなにかを得ようとするためではない。わたしの欲求を満たすためだけではなしに、そこから何歩か進んで、それで壁面を飾り立てようというもくろみから、このような種類の家具[書物のこと]に対して、なんと空しくて、金のかかる思いを抱いてしまったことか。でも、このような気持ちは、ずいぶん前に捨ててしまった。
モンテーニュ「エセー」第 3 巻、第 3 章、「三つの交際について」より(「エセー 6」(宮下志郎訳/白水社)に所収)

2018年3月17日土曜日

水時計

われわれは毎日死んでいるということです。つまり毎日毎日生命の一部分は取り去られているのです。われわれが成長しているときでさえも、生命は減少しています。われわれはまず幼児期を、次に少年期を、次には青年期を失っているのです。昨日に至るまで、経過した時はいずれもみな消滅しました。いや、現にわれわれが過ごしている今日でさえも、われわれはそれを死と分け合っています。水時計の水を空にするのは最後の一滴ではなく、その前に流れ出たすべてです。
「セネカ 道徳書簡集」(茂手木元蔵訳/東海大学出版会)、第二十四より

2018年3月15日木曜日

「三月大歌舞伎」

冷酒一合ほどを水筒に詰め、三越で蛸とセロリのマリネとばらちらしを調達し、歌舞伎座へ。夜の部を観劇。

「於染久松色読販」はお六と喜兵衛に玉三郎と仁左衛門。こういうはすっぱな感じも意外に似合うお二人である。「神田祭」も玉三郎と仁左衛門。二人とも今に残る真の花であるから、今見ておくべきものかと。「滝の白糸」は滝の白糸に壱太郎、村越欣弥に松也。松也が力演。こういう直情的で単純な役柄が似合う。

「滝の白糸」は玉三郎のお気に入りらしく、今まで 5 度自分で演じ、今回は演出。普通は新派なので、歌舞伎座では 1981 年以来の珍しい演目だそうだ。鏡花原作と言っても、確か師匠の尾崎紅葉との合作の初期作品だったはずで、そのせいか、講談調というか、メロドラマ的というか、そのあたりが芝居向きである。