百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2018年1月17日水曜日

池田先生のこと

昨日 1 月 16 日に池田信行先生がご逝去されたことを確率論メイリングリストで知る。

池田先生は伊藤清先生のすぐ下の世代で、日本の確率論の初期を代表する方だったと思う。今では日本の確率論は非常に大きな勢力となって、細分したグループそれぞれが既にかなりのサイズなので、確率論全体を一つにまとめるような方を思い浮かべることは難しい。池田先生は親分肌でもあり、そういう日本の確率論全体のリーダーだった。

私が池田先生の名前を知ったのは大学院生の頃で、もちろん、確率論を真面目に勉強しようとすると、当然 ``Ikeda-Watanabe" の名前を知るのである。私も修士の一年で読み始めた教科書がこれだった。私の指導教官は高橋陽一郎先生だったが、高橋先生は池田先生と親しく、また尊敬もされていたようである。例えば、Mark Kac の数学に強い興味を持っていたことや、数学のスタイルなど、今になって思えば、かなりの影響を受けていたと思う。

やはり院生のとき、池田先生の研究ノートのコピーを私がゼミで読むことになった。しかし、私の準備がまるで不満足なものだったので、高橋先生から「君には池田先生のノートを読む資格はない」と強く叱責されたことは、今思い出しても身の縮むような、また辛い記憶である。

そののち、学位をとってから立命館大学に就職して、池田先生とは同僚の関係になった。数学そのものについては、生焼けで失敗作の共著論文を一本書かせていただいただけで、私自身の非力と不真面目を後悔するしかない。しかし、日本の確率論発展の初期の頃の様々なエピソードなど、あれこれと身近に教えていただいたことは、ありがたくも貴重なことであった。

池田先生はその頃から数年で退職され、私もそのあとまた数年で大学を辞めたので、すっかり疎遠になっていた(池田先生は私の辞職にかなりご不興だったと聞く)。しかし、学会に顔を出されていたなどと人伝に聞いては、ご健勝ぶりを喜んでいたものであった。かなりの御年だったので大往生のはずと信じるが、寂しいことである。