百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2017年9月27日水曜日

鬢糸

人間も五十近くまで生きれば、やりたいことは大概やつてしまふものである。昔と違つて、そこで隠居する訳には行かないのは余り嬉しいことではないが、それでも若い頃のもやもやは仕事の上ではつきりした形を取り、人間が一生のうちに身に付けられる知識に限度があることも解り、自分がどういふ人間であるかといふことも、既に努力したり、工夫したりすることではなくなつて、或は少くともそれでまた変化が期待出来る範囲が狭められて、兎に角、もう若いことで苦められるといふことはなくなる。人間が本当に人間らしくなるのは、それからではないだらうか。その時から、人生の長い黄昏が始り、一日の終りに来る黄昏と同様に、日が暮れるのを待ち遠しく思ふのとは反対に、辺りのものが絶えず流れ去つて行くのを止める。といふ風なことを、この頃は考へてゐる。
吉田健一「鬢糸」(「わが人生処方」(中公文庫)所収)より

2017年9月23日土曜日

ルイス・キャロルの数学と私

先週、拙著「測度・確率・ルベーグ積分」(講談社)が出版されて今は、あんなに何度も校正したのに沢山残っていた間違いや誤植にため息をついているところである。サポートページの正誤表を更新してはいるものの、改訂のチャンスがあればよいのだが。

それはさておき、今まで沢山出版されている測度論と確率論の教科書に対する拙著の特色は、薄い、軽い、数学の専門家向けではない、などの他に、ルイス・キャロルにかなりページ数を割いて言及していることである。おそらく、一言でもキャロルに触れた現代的確率論の本は他にないだろう。

私は以前から、ルイス・キャロルの "Pillow Problems"「枕頭問題集」の確率に関する(複数の)問題の単純な間違いを、なぜ誰も指摘しないのか、とフラストレーションを感じていた。ほとんどの訳者は数学の知識、特に現代的確率論の知識を持っていないため、気づかないのは仕方がない。そもそもマイナな作品のため、気づいた読者も特に公には言及しないのだろう。しかし私としては、いつか機会があれば、このことを書きたいと思っていた。

また、随分と前のことで経緯は忘れたが、某出版社からルイス・キャロル全集の企画を手伝ってほしいと頼まれたことがある。数学に関する業績も入れたいから、数学が主題の論文や記事の内から主要なものを選んで訳してほしい、とのことだった。今なら話半分に聞くが、当時の私は真面目だったので、キャロルの業績がほぼ網羅されている、イギリスで出版された全集の大量のコピーを一ヶ月ほどかけて熟読したのだった。そして、重要かつ代表的と思われる論文数編を選び、翻訳もした。しかし、良くあることながら、その企画はお流れになったらしく、編集者も何の連絡もしてこなくなった。

おかげで私はキャロルの数学的業績に通じることになった。初歩の論理学、代数、暗号、円積問題(円と面積が等しい正方形の作図問題)などは予想の範囲内だったが、公平なトーナメントや選挙の方法に関する論考や提案など、シリアスな貢献と言えなくもない仕事もある。キャロルの数学の世界の全体に目を開かされたことは良い経験だったが、直ちに何かに生かせるわけではない。まあ、無駄骨を折ったわけで、こういうのを「教養」と呼ぶのかも知れないが、いつか何かの形にできないものかとも思っていたのである。

私見ではルイス・キャロル(Dodgson, C.L.)の数学的業績は、おそらく、大したものではない。しかし、19 世紀末というある意味で絶妙の時期に、キャロル的としか言いようのない独特のセンスで活躍したため、数学史・科学史的に興味深い題材になっていると思う。例えばその一つが、今回「測度・確率・ルベーグ積分」でも触れた、測度論誕生前夜のエピソードとしての「ランダムに選んだ数が有理数である確率、無理数である確率」を巡る論争である。

以上の二つの理由から、このあたりのことについて何か文章を残したいと思っていたところに、「応用者向けの測度論の入門書を書かないか」と出版社から相談され、正直に言うと、導入部でキャロルについて書きたいばっかりに二つ返事で引き受けたのである。そして無事に出版までたどり着けたが、説得力のあるイントロダクションになっているかどうかは、読者諸氏のご判断に任せるしかない。もちろん私自身は、欲求不満の一部を解消できたこともあり、けっこう気に入っている。

2017年9月15日金曜日

秀山祭九月大歌舞伎

歌舞伎座にて昼の部を観劇。「彦山権現誓助剱(毛谷村)」、「道行旅路の嫁入」、「極付 幡随長兵衛」。毛谷村はけっこう好きな話。物凄い御都合主義なのだが、それが可笑しみで気にならない。今回は菊之助のお園が良かったような。「道行旅路の嫁入」は忠臣蔵からの舞踊。戸無瀬役の藤十郎をありがたく拝見させていただく演目か。最近、幡随長兵衛をよく観ているように思うのだが気のせいだろうか……長兵衛の女房を演じる魁春がなかなか良い。

ところで、お酒を飲みながら観ていたら、幕間に見知らぬお婆さんから「江戸切子ですか? 素敵ですねえ」と話しかけられた。昔から、年上にモテる私である。

2017年9月12日火曜日

ひと夜さ

わたしたちは、かつて、目が覚めていたし、やがて、ふたたび、目を覚ますであろう。人生は、ひとつの長い夢に充たされたひと夜さであり、夢のなかでは、人は、とかく、うなされる。
「自殺について」(ショーペンハウエル著/石井立訳/角川ソフィア文庫)より

2017年9月9日土曜日

エアコンの水漏れ

この前、新調したばかりのエアコンの下に置いてあったペイパーバックが、ぐっしょり濡れて黴だらけになっていることに気付いた。知らないうちに、エアコンから水漏れしていたのである。慌てて業者に連絡をして、対応してもらった。

これが私にとっての、最近の大事件。あの人はお気楽だから人生の悩みと言ったら、花に虫がついて困るくらいのものだよね、と言われるような生活を理想としているのだが、また理想状態に戻った。「閑雅なる君のかなしみ苧環の花芽に繭ごもる蟲ありと」(塚本邦雄)。

ところで、自分でも調べたり、業者の方から聞いたりして、エアコンの排水の仕組みについて知ったことが面白かった。エアコンに冷房時用の排水管があることは知っていたが、まず、そんなに大量に排水しているものだとは思わなかった。しかし、日本の蒸し暑い夏の空気を冷やせば大量に水分が凝結し、それが適切に排水されないと、エアコン内にたまった水が盛大に零れ落ちてくるのは当然である。

また、排水の仕組みが単に重力任せだということも知らなかった。冷却器の下に受け皿があって、そこから配管の傾きで水を流し出すだけのシンプルな仕組みなのだ。だから、不具合の原因の特定や解消も簡単である。配水管の詰まりを取り除くための手動のポンプ(通販で安価に売っている)があれば大抵解決するし、エアコンのカバーさえ外せるなら素人でも 100% 問題を同定し解消できるな、と思った。とは言え、私なら業者を呼ぶが。

そんなわけで、被害にあったペイパーバックを陰干しして、何とか読めるようにならないかなあ、と期待している今日この頃。


2017年9月7日木曜日

人間の状態

ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの何人かが毎日他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態を描いた図なのである。
パスカル「パンセ」(前田陽一・由木康訳/中公文庫)、第三章「賭の必要性について」、第二〇〇項

2017年9月3日日曜日

大皿と小皿

また、会期終了ぎりぎりにならないと行かないの法則で、根津美術館の「やきもの勉強会 食を彩った大皿と小皿」をようやく観に行ってきた。根津美術館は久しぶり。

確かに小皿って「銘々」の皿だから、大昔から食事の場にあったわけじゃないんだなあ、と当たり前のことを思う。私は大皿料理を「パーティ系」、小皿や小鉢の料理を「愛人系」と勝手に(たぶん桃井かおりさんにならって)呼んでいるのだが、小皿料理は愛人系の人の要請で誕生したのではないか。いや、真面目にそう思ってます。

ところで、私の実家で小皿一般のことを「おてしょう」と呼んでいるのを方言だと思っていたのだが、展示の説明の中に「手塩(皿)」という言葉が沢山あって、標準的な言葉だったのだな、と今さら知った。