百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2017年6月11日日曜日

狂気と天才

昨日、定例のゼミに出席したついでに、東京ステーションギャラリーで開催中の展覧会「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」を観た。展示されている作品だけでも圧倒されるが、これを何万枚もの絵物語に描き続けた首尾一貫性が怖い。狂気と言うべきか天才と言うべきか。

最近思うのだが、天才の本質はその首尾一貫しているところではないか。基本的に凡人には首尾一貫した見解や、生き方の方針がない。大体において、毎日をその場限りの反射と妥協と曖昧さで生きているものだ。G.K.チェスタトンが、狂人とは正気が足らない人ではなくて正気過ぎる人のことだ、と言うようなことを書いていたと思うが、まさに狂人と天才は正気過ぎるのだと思う。

ヴェルフリの複利計算の表と世界征服計画の絵などを観ていると、夢見がちなデイトレイダとか起業家の妄想と大差ないのだが、それがここまで徹底しているところが怖い。資本主義は本質的に精神病と関係があるに違いなくて、正気過ぎる人はこうなってしまうのかも知れない。