百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2017年5月27日土曜日

最大の悩み

昨日、夕方から白金台のホテルの中国料理屋にて、社員や元社員の皆さんから私の慰労会をしていただく。まだ(非常勤の)役員をしているので歓送会とまではいかないが、代表兼社長は退いたので、これまでお疲れ様でしたということで。先代の社長からは結構な白ワインをお祝いにいただいた。

実際のところ、私が代表兼社長を勤めたのは二年と三ヶ月ほどだし、それも大会社の社長とは違って気楽な上に暇で、社員の皆さんにお疲れ様と言っていただけるほどのものでは全然なかったのだが、何にせよ、私からすればありがたくも恐縮であった。

隠居して毎日何をしているんですか、と良く訊かれるのだが大抵、「いろいろ」と答えている。実際いろいろなのである。つけ加えて、「こんな幸せなことはなかった」とも言っている。ショーペンハウアーの「幸福について」に、自由とは朝な朝なに今日の一日は私のものだと言い切れることだ、と書かれていたように記憶しているが、実際、毎朝、さて今日は何をしようかなあ、と思う毎日である。また同書に、その人が幸せかどうかは悩みがいかにささやかでつまらないものかで分かる、とも書かれていたと思う。私の今の最大の悩みは、浴室のカランの水の出が悪いことである。