百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2017年4月22日土曜日

「暇であることについて」

わたしは最近になって、残されたわずかな余生を、世間から離れてのんびりとすごそう、それ以外のことには関わるものかと心に誓って、わが屋敷に引っ込んだ。というのも、そのとき、わたしが精神にしてやれる恩恵といったら、それを十分に暇なままに放っておいてやって、みずからのことに心をくだき、みずからのうちに立ち止まって、腰をすえさせてやること以上のものはないように思われたのである。そうすれば、いずれ時間とともに、精神もずっしりとしてきて、円熟味をまし、もっとたやすく自己のうちにとどまれるのではないのかと待ち望んでいたのだ。ところが、気づいてみると、《暇は、いつだって精神を移り気にしてしまう》(ルカヌス「内乱」四の七〇四)のであった。わが心は、放れ馬のようにあばれまわり、他人に対してより、はるかに自由奔放にふるまってしまうのである。そしてわたしのうちに、たくさんの風変わりなまぼろし(シメール)やら化け物(モンストル)を、わけもなく無秩序に、次々と生み出してくるものだから、そのばからしさや異常さを、ゆっくり観察してみようとして、わたしはそれらの目録を作り始めたのだった — いずれ時間がたったら、わが精神に、このことで恥でもかかせてやろうと思って。
「エセー」(モンテーニュ著/宮下志郎訳/白水社)、「暇であることについて」より