百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2017年4月25日火曜日

antifragile

I want to live happily in a world I don't understand.
from ``Antifragile" (N.N.Taleb / Random House)

2017年4月23日日曜日

幸福の定義

「十五歳のときに欲しいと思ったものが五十歳になって全部手に入ったら、そいつが幸福ってものさ」

「虎よ、虎よ!」(A.ベスター著/中田耕治訳/ハヤカワ文庫)より

2017年4月22日土曜日

盲亀の浮木

午前中は、定例のデリバティブ研究部会自主ゼミ。メインスピーカの代打として、私が単発もので発表。ガウシアン相関予想を解決した T.Royen の論文を紹介した。解かれてみれば自然なアイデアに思えるが、なかなか思い付き難い一般化が Royen 得意の分野の知識に結びついているので、ある種、「盲亀の浮木」的な出会いものなのでは。

このガウシアン相関予想(Gaussian Correlation Conjecture; GCC)には、二十年ほど前のこと、私の先生が解けたと思って大喜びした途端、間違いが指摘されてがっかりしていた、という思い出がある。その証明はすっかり忘れてしまったが、Royen の証明のポイントがランダム行列を通したラプラス変換表現にあることからして、実はいい線を行っていたのかも知れない。

参加者によるゼミの後のランチは、タイ料理のビュッフェ。発表で喉が乾いた、という理由をつけてシンハービール。タイ料理とビールの相性は最高。

「暇であることについて」

わたしは最近になって、残されたわずかな余生を、世間から離れてのんびりとすごそう、それ以外のことには関わるものかと心に誓って、わが屋敷に引っ込んだ。というのも、そのとき、わたしが精神にしてやれる恩恵といったら、それを十分に暇なままに放っておいてやって、みずからのことに心をくだき、みずからのうちに立ち止まって、腰をすえさせてやること以上のものはないように思われたのである。そうすれば、いずれ時間とともに、精神もずっしりとしてきて、円熟味をまし、もっとたやすく自己のうちにとどまれるのではないのかと待ち望んでいたのだ。ところが、気づいてみると、《暇は、いつだって精神を移り気にしてしまう》(ルカヌス「内乱」四の七〇四)のであった。わが心は、放れ馬のようにあばれまわり、他人に対してより、はるかに自由奔放にふるまってしまうのである。そしてわたしのうちに、たくさんの風変わりなまぼろし(シメール)やら化け物(モンストル)を、わけもなく無秩序に、次々と生み出してくるものだから、そのばからしさや異常さを、ゆっくり観察してみようとして、わたしはそれらの目録を作り始めたのだった — いずれ時間がたったら、わが精神に、このことで恥でもかかせてやろうと思って。
「エセー」(モンテーニュ著/宮下志郎訳/白水社)、「暇であることについて」より
 

2017年4月19日水曜日

低温調理

夜は E 社の N 社長からのお誘いで、私の隠居を記念しての会食。新宿三丁目の謎の会員制バーのような店にて。牛肉の希少部位を低温調理したもののコース。低温調理も良いが、やはり肉はじゅうじゅう焼いて食べたい気もする。最初のユッケが一番美味しかったかも。スパークリングのあとボルドーの赤ワインを一杯だけ。N さんはどうやら最近飲み過ぎらしく、ちょっと心配である。

林類歳且ニ百歳ナラントス

子貢曰く、先生少(わか)くして行を勤めず、長じて時に競わず、老いて妻子なく、死期将に至らんとす。亦何の楽があって、穂を拾うて行〻歌うやと。林類笑って曰く、吾が楽となす所以のものは、人皆之あれども、反って以て憂とするなり。少くして行を勤めず、長じて時に競わず、故に能く寿きこと此くの若し。老いて妻子なく、死期当に至らんとす、故に能く楽しむこと此くの如し。

「列子」(小林勝人訳注/岩波文庫)、「天瑞第一」より

2017年4月14日金曜日

歌舞伎座で花見

天気も良いことだし歌舞伎座に行ってみるか、と突然思い立つ。隠居の身分で贅沢は禁物だが、家はなし、妻子はなし、芸者をあげるでなし、博打をうつでなし、これくらいの道楽は許されるだろうと思い、今月も歌舞伎座へ。「四月大歌舞伎」昼の部。「醍醐の花見」、「伊勢音頭恋寝刃」、「一谷嫩軍記」(熊谷陣屋)。

今年は特に花見に行かなかったので、持ち込んだ日本酒を飲みながらの「醍醐の花見」がその代わり。鴈治郎の秀吉がパタリロ的な愛らしさ。「伊勢温度恋寝刃」は福岡貢に染五郎、万野に猿之助などで若々しい配役ゆえにか、あっさりし過ぎているように思えた。そのせいか、実は途中で寝てしまったのだが。熊谷陣屋を観るのは何度目だろう。今回は直実に幸四郎、相模に猿之助など。可もなく不可もなくだが、これも猿之助向きの役ではないような。

偶然、劇場内で知り合いの長唄の師匠に会う。旦那さんが舞台で三味線を弾いているので、中日の様子を観に来た模様。幕間に「めでたい焼き」をいただいたり。鯛焼の中に紅白の餅が入っていてめでたい。舞台が終わったあと、歌舞伎座すぐ近くの店でお二人の「反省会」にお付き合いする。熊谷陣屋の最後の送り三重についてなど、舞台側からのお話が色々と聞けて楽しかった。

夕方お別れして、近所のスーパーで週末の朝食用のフルーツ、花屋で観葉植物を買って帰宅。昼にあれこれ食べ過ぎたので夕食は盛り蕎麦とお茶だけ。

2017年4月8日土曜日

日本橋の桜

定例のデリバティブ研究部会自主ゼミ。予定スピーカの急用のため、代打として A 先生が「確率空間の圏」について話された。数理ファイナンス的な動機から、圏論を確率論に応用する野心的な試みで、なかなか興味深かった。

次回の再来週もメインスピーカが話せないときの保険をかけておこうということになり、一番暇な私が手を上げる。最近、ガウシアン相関不等式(GCI; Gaussian Correlation Inequality)の予想を解決した論文を読んでいるので、その話ならできそうだと思って。

参加者によるゼミ後のランチは洋食屋にてオムライス的な料理。店までの道程は、こんな街中なのに沢山の桜が満開。その下で花見をしている人々までいた。

最近、週末になると名作 SF 長編を読んでいる。今回は「夏への扉」(R.A.ハインライン著/福島正実訳/ハヤカワ文庫)。

2017年4月5日水曜日

普通の一日

寝床で「古楽の楽しみ」を聞いて、7 時に起床。猫に水とキャットフードをやり、サンセヴェリア(Sansevieria Ehrenbergii Samurai Dwarf)を観察して、自分にはヨーグルト。一息ついてから納豆定食を作る。朝食のあと珈琲を飲みながらメイルをチェックして、"Wheelock's Latin" でラテン語の勉強と、Aaronson の "Quantum Computing since Democritus" を 30 分ずつ。そのあと顔を洗って、着替えをし、お茶を入れて、午前中は原稿仕事。お昼時になったので、ランチがてら区役所に印鑑証明をもらいに行く。散歩に最適の好日。区役所は満員御礼。どうやら新年度で転入手続きの類が殺到しているようだ。とは言え、「死は万病を癒す薬」(R.ヒル著/松下祥子訳/ハヤカワ・ミステリ 1830)を一、二章読んでいるうちに済んだ。カレー屋の前に行列が出来ていたので、近くの新刊書店で暇つぶし。平凡社ライブラリーのフェア中。色々眺めた結果、「園芸家の一年」(カレル・チャペック著/飯島周訳/平凡社ライブラリー)を買った。人の波がひいたカレー屋で昼食をとり、歩いて帰宅。午後も原稿仕事。夕方になり、風呂。湯船の読書は、"Too Many Clients" (R.Stout / Bantam)を読み終えたので、「死は万病を癒す薬」の続き。夕食の支度。鯛のあらを使った鯛飯と、葱と油揚げの赤だし。夜は「園芸家の一年」など。生ハムとチーズとワインを少々。

2017年4月2日日曜日

「大都会隠居術」

学生時代、と言っても二十そこそこの頃だが、「大都会隠居術」(荒俣宏編著/光文社)を読んで、そうだこれが私の望んでいた生き方だ、と思ったものである。私は元来老人臭い子供だったが、さらに言えば「隠居」に憧れていた。この本は隠居をテーマにしたアンソロジで、その心構えや実践の智恵を編者が指南する、という格好になっている。要点を一言で言えば、「隠居とは凡人に実現可能な唯一の自由な生き方であり、その奥義は老いることに他ならない」とでもなろうか。

中国の故事によれば、かつて世に稀な大天才がいたのだが、二十歳で心朽ちてしまったと言う。すなわち二十で老人になった。その後どうしたか誰も知らないのは、つまり隠居して幸せに暮らしたのだろう、少なくとも本人は。もちろん、これは稀代の天才にして可能な技である。この本を編んだ荒俣氏は当時、四十五歳。確かにその後は仕事らしい仕事をしていないので、隠居に成功したのだろう。私の場合は、それから修行を積むこと四半世紀余り、そして今漸く隠居したのだが、荒俣氏より少し時間がかかった。

今日久しぶりにこのアンソロジを読み返したのだが、漸くにしてこれを面白く読めるようになっていた。昔は正直に言って、荒俣氏の文章は愉快であるものの、集められている文章の方はさほど楽しめなかった。しかし今、面白い。最後がピーター・S・ビーグルの「心地よく秘密めいたところ」とボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」からの抄訳で締められているところなんて、すごくいい。